VoodooDaddyO 岡田聡
美学とは元来エステティックなわけで、美と芸術と感性の三位一体のなかで考えられるべきもの。感性とは理性の対局にあるものであり、人間精神を表象するもの。理性で把握しきれない残余の受け皿としての精神。それを探求する美学は啓蒙期において人間中心主義を貫徹するために重要な概念だったのだ。
8月10日
9 months ago • 0 notesVoodooDaddyO 岡田聡
美学とは元来エステティックなわけで、美と芸術と感性の三位一体のなかで考えられるべきもの。感性とは理性の対局にあるものであり、人間精神を表象するもの。理性で把握しきれない残余の受け皿としての精神。それを探求する美学は啓蒙期において人間中心主義を貫徹するために重要な概念だったのだ。
8月10日
9 months ago • 0 notes——-デュシャンのあの便器を「泉」という美術作品にしているのは、実は作者のデュシャンではなく鑑賞者ではないのか、ということです。この関係は美術作品とは言えないかもしれませんが、古典的な美術作品とは全く次元の異なる関係項ではないかと思います。つまり、作品を媒介として鑑賞者が作者と明らかな共犯関係を結ぶ、そういう作品創作の可能性がこの時に作られたのではないかという気がします。この関係項と構造は、現代の様々な局面で創作活動を透視しているような気がします。私はデュシャンのレディメイドを、書き込み可能な白紙の本、【オープンテキスト】であると考えるようになって、レディメイドを人前でとても語りやすくなりました。
(『フレンチ・ウィンドウ展:デュシャン賞にみるフランス現代美術の最前線』の関連イベントとして、2011年6月6日、森美術館にて行われた講演会、河本信治「デュシャンという物語の始まり」より)
@_horkew ほるけう
@oono316 oono nanae イケムラレイコ展、写真は川内倫子が、音楽を蓮沼執太が手がけているらしいです。
近美のイケムラレイコ展、非常に良かったです。回顧展でモダンな作風は好みが出そうだけど、何よりすばらしいのはその見せ方。展示構成。作品を見せるための全てに冷静さがあるし、センスも抜群にいい。キャプションはないけど客を置き去りにしないのもすごい。
好みを除いて考えたときに、空間という現場を知っているものが良い展示を作れるのか、作家作品という人間を知っているものが良い展示を作れるのか。どちらにも良さがあるのだけど、今回の展示はパートナーの方が空間構成をされているとか。作家のどこをどう見てほしいか案内されているかのようだった。
ただ作家に近しいあるいは熱狂した立場というのはヴァザーリの列伝のような感じに陥りやすいし、細心の注意としていかに冷静でいるかということを考える。それは、見る側の立ち位置として。
@noieu椹木 野衣 Noi Sawaragi
“@diceque: なぜ吉本隆明氏は科学技術の発展を人間の存在論に組み込まずにおれないのか。原子力に限らず、それがあると知りながら封印すべきことはいくらでもある。岐路へと引き返し、別の道を歩むことは極めて人間的な営為であるはずで、人間をやめることではない。”
9 months ago • 0 notesYukoHasegawa Yuko Hasegawa
いい作品って何ときかれると、強い作品と答えます。強い作品って何ってきかれるとほそくてももろくてもちいさくても強靭な存在感のある作品と答えます。その存在感って何ってきかれると、世界が「その作品があることを必然として押し出している存在」とこたえます。じゃその世界ってなにと。
yoookd sllǝʍoɥ-ɐpɐʞo oʎ
…アートそのものを生涯の仕事に出来る人は多分卒業生の1%にも満たないけど、アート教育は間接的にいろんな分野に役立つと思う。一方、日本の板前さんもその道を究めるために華道や茶道や陶芸をやると聞く。アーティストも料理人になれるかも。多角的経験は人生を豊かにし不況時も柔軟になれる。
@tatsuomiyajima宮島達男
アート系学生は特に専門職にこだわりすぎ。文学部や経済学部の学生が全員文学者や経済学者になるわけではない。むしろ、アートの持つ想像力をあらゆる職場で、社会の隅々まで波及させるほうが、潤いある社会になると想うのだが。
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hazuma 東浩紀
思想地図β2の巻頭言に書いているのだけど、ゼロ年代の批評って要は「娯楽で繋がる可能性」を肯定的に評価しようって運動だったわけです。「年収1億でも年収100万でもみな同じアニメ見てるよね」と。
しかし3.11が突きつけたのは、「で、同じアニメ見てたからって、どうなのよ?」ってことだと思う。その状況に対してどうするのか、ぼくにも明確な答えはないんだけどね。
娯楽が必要ないと言っているのではなく、「娯楽でしか繋がれない」のが貧しいと言っているのですよ。。
HYOGO_M Hyogo M
歴史を見ることは、今の時間に、たいらに存在を感じている物事を地層を確認するように垂直に割って見ることなのかも。あるいは地層を捲り見ることなのかも。とにかく、歴史で照らすと物事は立体的迫りあがる。そして、人は忘れるから、忘れることも忘れがちだから、見る行為は大変。
9 months ago • 0 notes
イデアからイメージへ。たとえば、ジャン=リュック・ナンシーは「構想力の力」(『イメージの奥底で』所収 以文社 西山達也他訳)という論考のなかで、次のように語っている。少し長くなるが引用しておく。「ルネサンスから19世紀にかけて、ヨーロッパ的思考(みずから西洋化し、それが「世界」だと想像する世界)は、タブローから映写スクリーンへ、表象〔再現前化〕から呈示〔現前化〕へ、イデアからイメージへ、あるいは正確に言えば、空想ないし幻想から想像力へと変換を遂げた。このことはまた、次のようにも言い換えられる。存在論から現象学へ、したがって存在から現れへ、形式から形成作用へ、あるいは質料から力へ、イデアから構想へ、そして最後に一言で要約すれば、見られたものから見ることへ、だがさらに先鋭な言い方をすれば、要するに嘘としてのイメージからイメージのとしての真理への転換ということに尽きる」。
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ここまでの論理を整理しておけば、写真を語る場合、「記録」と「表現」の対立を前提にしてはならない。まず前提になるのはあくまでも記録性なのだ。現実を演出して撮影しようが(いわゆるコンストラクテッドフォト)、撮影した写真を加工しようが、コラージュしようが、前提となるのは記録性なのである。これこそがカントの「美」から「崇高」であり、ヘーゲルの言う「芸術の終焉」であり、ベンヤミンが言う「礼拝価値」から「展示価値」であり、ジャン=リュック・ナンシーの言う「虚偽としてのイメージ」から「イメージとしての真理」であり、ドゥルーズの言う「イデア」から「イメージ」なのだ。
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こうした身体性による知覚の純粋性とは、言うまでもなくフッサール及びメルロ=ポンティらの現象学に依拠している。ドゥルーズは『シネマ1‐運動イメージ』のなかで、次のように述べている。「「たんなる物質的運動でもって意識のレベルを再構成しようと欲する唯物論と、たんなる意識内のイメージでもって宇宙のレベルを再構成しようと欲する観念論の敵対であった。(略)そして、同じ時代に、きわめて異なる二人の論者、すなわちベルグソンとフッサールが、この責務を引き受けようとしていた」。ベルグソンもフッサールもともに、イデアからイメージ(=テクノ画像)の時代を前提にしている。フッサールが「あらゆる意識は何ものかについての意識である」をスローガンとすれば、ベルグソンは「あらゆる意識は何らかのものである」(これはドゥルーズ的ベルグソン解釈による要約らしい)を据えるだろう。この二人の哲学者のスローガンの違いは大きい。
「あらゆる意識は何ものかについての意識である」と「あらゆる意識は何らかのものである」。この二つの違いとは何か。周知のように、フッサールにおける「あらゆる意識は何ものかについての意識である」とは、「志向性」とも呼ばれ、現象学におけるキーワードの一つである。しかし、ここで誤解してならないのは、フッサールにおける意識とは、人格的・人間的な意識のことではない。フッサールにおける「超越論的主観性=超越論的な我(エゴ)」とは、特定の人格の心理的主観性のことではなく、あくまでも現象学的な判断停止(エポケー)された意識である。フッサールはその著『デカルト的省察』のなかで、次のように述べている。「現象学的な判断停止は、客観的世界の存在の効力を停止し、したがって、まったく判断の場から遮断するとともに、あらゆる客観的に捉えられた事実と同様に、内的経験の事実についても、存在の効力を停止遮断する」(『デカルト的省察』浜鍋辰二訳)。つまり、フッサールが言う「超越論的主観性」とは、客観的世界も、人格的内的経験も停止し遮断された「意識」のことである。実際、フッサールは、デカルトはこの超越論的な我を見出したが、その我を人格的な我に還元してしまったと批判している(それが超越的な主観性である)。とすれば、現象学的エポケーの後に残るのは何か。それが「身体」と言うことになるだろう。もちろん言うまでもなく、この「身体」とは、前人格的身体である。この場合の現象学的な「身体」とは、意識のゼロ度における「身体」である。したがって、「あらゆる意識は何ものかについての意識である」における意識とは、中心化された、ある匿名の意識がゼロ度化した身体による知覚である。だからこそ、現象学は身体における純粋な知覚を標榜するわけである。プロヴォークもまた、この現象学的なアプローチに依拠し、その身体性における純粋知覚を謳うだろう。
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では、ベルグソンにおける「あらゆる意識は何らかのものである」とはどういうことか。これまた周知のように、ベルグソンは人間における知覚を身体の有用性によって中心化された物質のある側面、つまり引き算された「物質」と規定した。ベルグソンにおける人間の知覚とは、人間の有用性にもとづいて身体という中心によって切り取られた(引き算された)物質の一側面である。人間の知覚が身体によって中心化された知覚という意味では、現象学もベルグソンも同一の見解である。しかし、ベルグソンにおける知覚は物質からの引き算に対して、現象学における知覚は物質に何らかのものが加算されたものであり、であるがゆえに「身体」におけるゼロ度を想定するわけである。ベルグソンの知覚においては、物質も知覚も程度の差異しかない。しかし、現象学における知覚は、知覚に程度の差異を想定し、物質と知覚に本性上の差異を見る。ベルグソンにおいて本性上の差異が生じるのは、物質と知覚の間ではなく、知覚と記憶の間である。つまり、ベルグソンにおける知覚では、知覚に対して記憶という次元において変容(加算?)が生じるのだ。したがって、ベルグソンのあらゆる意識は何らかのものである」とは、現象学が知覚を物質に対立するものとして位置づけているのに対して、ベルグソンは物質の延長として知覚を位置づけているということである。
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現象学的な知覚とベルグソン的な知覚。上記の説明ではまだ分かりにくいかもしれない。もう少し別な角度から考えてみよう(写真-カメラの知覚とどう結びつくのかという疑問があるかもしれないが、それについては後述する)。現象学的な知覚とベルグソン的な知覚、その相異のルーツはデカルトとスピノザの違いにあるように思われる。どういうことか。デカルトにとって厳密な意味での実体-それ自体で存在するもの-は、神という存在だけだが、精神と物体も実体とした。それに対してスピノザは、神(自然)のみが実体であり、精神と物体は神(自然)の属性の一部である(つまり、精神と物体以外にも、神=自然の属性はありえる)。デカルトは精神と物体をともに実体とすることで、精神と物体(世界)を対立させる。しかし、スピノザ的発想は、精神と物体はそれぞれが神(自然)の一部にすぎない。
このデカルト的発想とスピノザ的発想の相異とは何か。デカルト的な精神と物体を実体とみなすことは、おのおのを自律した存在とみなすことである。ここから主体-客体の構図が浮上する。ハイデガーがその著『世界像の時代』で位置づけた、「存在するものの対象化」という近代における世界像の位置づけである。主体-客体という構図からなされる「存在するものの対象化」は、主体によって対象化された客体(世界)を閉じられた全体として想定してしまう。現象学においては、「志向性」という概念によって、対象の把捉が自律した一つの世界ととらえられることになる。
他方、スピノザ的な発想では、精神も物体も神(自然)という全体の一部(一属性)でしかない。とすれば、精神によってとらえられた(対象化された)客体(世界)は、神(自然)の一部でしかないということになるだろう。ということは、その全体とは開かれた全体ではなかろうか。ここに、スピノザの自然哲学としての発想がある。主体によって把捉された対象は、自然=世界(対象)の一部、ある側面でしかない。このデカルトとスピノザにおける対象の把握の相異は大きい。
では、上記のデカルト的発想=現象学とスピノザ的発想=ベルグソンを写真の知覚に敷衍するとどのような論理が展開されるだろうか。
(via Oshima Hiroshi)
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